大阪

大阪府(おおさかふ)は、近畿地方に属する日本の都道府県の一つ。 摂津国東部(大阪府北部、大阪市内)、河内国(大阪府東部)、和泉国(大阪府南部)からなる。
古代は「難波(なにわ)」、中世には小坂、「大坂」と変遷し、明治にいたって「大阪」と改められる。
「大阪」も参照のこと。

近世以降、堺など舟運の要衝を占め、一時は、「天下の台所」とまで謳われ、第二次世界大戦頃までは、全国一の工業生産高を上げるなど、日本経済の中心地であった。現在でも、オランダなど一国の経済規模に匹敵する40兆円の府内総生産を誇る。西日本の経済・交通の中心をなす巨大都市である。

歴史

大阪府は、かつての令制国での和泉国、河内国、および摂津国の東部にまたがる地域を占めている。古代から瀬戸内海を経る航路の終着点として住吉大社近くの日本最古の国際港の住吉津が機能しており、大和王権と深い繋がりがあったと考えられており、日本最古の官寺である四天王寺や仁徳天皇陵を始めとする百舌鳥古墳群や古市古墳群など大小多数の古墳が造営されている。また大化の改新後に即位した孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は日本最初の本格的な首都とされ、その後も聖武天皇の難波京などのように都や副都が度々置かれた。

平安時代においては、淀川の河口に位置するこの地は京都と水運で結ばれ、この水運を介しての関係はその後明治時代に鉄道が敷設されるまで続くことになる。平安中期になって、源満仲の長男頼光が摂津の多田(現兵庫県川西市付近)を、三男頼信が河内の壺井(現大阪府羽曳野市)をそれぞれ拠点とした。このうち頼信の河内源氏が有力となり、頼信の孫の八幡太郎こと源義家は坂東武者を従えて武家の棟梁となり、大阪府の南河内は武家の中心地となる。この源義家の四代後の子孫が鎌倉幕府を開く源頼朝である。

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、河内に悪党と呼ばれた在地豪族の楠木正成が出て活躍した。正成をはじめとする楠木氏は南朝方の有力武将として河内に拠り度々足利尊氏ら北朝と戦ったが、正成は湊川の戦いで、その子正行も四條畷の戦いで戦死するなどし、やがて勢力を弱めた。室町時代に入ると摂津・和泉には細川氏が、河内には畠山氏がそれぞれ守護に任ぜられた。ただ両家とも幕府の三管領家に名を連ねる家柄であり、実際の政務は配下の守護代が執り行うことが多かった。なお後に肥後国熊本藩々主となる細川氏は、和泉守護を務めた分家筋に当たる。

応仁の乱後、戦国時代に入ると、細川氏・畠山氏ともに家督を巡る争いから混乱を極めた。この間、堺は会合衆と呼ばれる町衆が中心となって運営し、平野は坂上田村麻呂の子の坂上広野の子孫による自治都市として栄え、また摂津の石山には法華信者との争いから京都を去った浄土真宗の蓮如が石山本願寺を建立した。一方、新たにこの地域で力を持ったのは細川氏の家臣で阿波国出身の三好氏で一時は将軍の後ろ盾となるほどの勢力を誇ったが、三好長慶の死後はやはり家内の争いによって力を弱め、その後台頭してきた織田信長に屈服した。信長に対して浄土真宗の法主であった顕如は全国の信徒に蜂起を呼びかけ、また自らも石山本願寺に篭って織田勢と対決した。この石山合戦は十年にも及んだが、最終的には1580年(天正八年)に本願寺を開け渡すことで終結を迎えた。

信長の死後その領土を継承した豊臣秀吉は、石山本願寺の跡地に自らの居城となる大坂城の築城を開始した。この城は淀川と大和川の河口であることに由来する地形を利用しており、城下町までも堀で囲って城の一部とする惣構の作りをした巨大なものであった。その無類の堅固さは大坂冬の陣で証明され、結局この時寄せ手は惣構内部に進入することが出来なかった。しかしその後の夏の陣までの間に堀は埋め立てられて城も機能を失い、この戦いによって豊臣氏は滅亡した。

江戸時代に入ると大坂は経済・商業の一大中心地として繁栄し、「天下の台所」と称された。全国からの航路が集まる大坂には諸藩の蔵屋敷が立ち並び、また諸国からの物産の集積地でもあったためそれらを扱う大商人も登場した。そうした環境の中で様々な芸術も成長・発展を遂げ、いわゆる上方芸能の形が出来上がっていった。この他にも、井原西鶴や近松門左衛門といった文筆家や上田秋成・富永仲基ら学者が多数出た。1837年(天保八年)に大塩平八郎の乱を起こした大塩平八郎もまた、市内で陽明学の私塾洗心洞を開いていた。幕末には緒方洪庵の適塾からは福沢諭吉などを輩出している。

明治維新後は、首都機能が京都から東京へと移ったこともあって一時的に衰えを見せた。しかし後に繊維関係を始めとする軽工業部門を中心に工業化を達成し、後の四大工業地帯の一つ阪神工業地帯の原型が形成され、日本経済の中心地としての役割を維持し続けた。戦後もしばらくはそうした地位を保っていたが、やがて高度経済成長期に入ると阪神工業地帯内でも軽工業の比率が高かった大阪府下の経済は閉塞的な様相を見せるようになった。当時の花形産業であった鉄鋼・造船・自動車といった重工業への転換が進まなかったことが一因とも言われている。

こうした中で1970年に大阪市の北隣、吹田市の千里丘陵で日本万国博覧会が開催された。これは東京オリンピックと併せて戦後日本を象徴する出来事とされている。なおこの時の会場は、現在万博記念公園として整備されている。1995年の阪神・淡路大震災では、震源から距離があったため直接的な被害は少なかったがそれでも震度4を記録したほか、ライフラインの途絶や交通機関の麻痺など少なからず影響を受けた。